「この過労死がすごい!」は問題提起となり得るのか

 「この過労死がすごい!」という同人のカードゲームがあるということで、最近記事になっていました。

「この過労死がすごい!」は、“社畜”となったプレイヤーが、「残業カード」(残業の中身と時間が書かれたカード)や「業務外カード」といった計62枚のカードを駆使して残業に励み、残業代(ブユウデンと呼ばれるポイント)を稼ぐゲームだ。他の社畜(プレイヤー)を蹴落とし、“カロウシ”のリスクを免れながら、いかに多くの残業時間を上積みできるかが勝利のカギとなる。
「この過労死がすごい!」がすごい! 驚くべきリアルな“社畜”ルールとは dot. 2016/3/22

 ツイッター見ると「面白そう」という反応と、「こういうのを面白がる風潮に問題あり」という反応が綺麗に分かれていましたが、個人的に気になったのは、このカードゲームが過重労働への問題提起となり得るかという事です。なお、これを制作した「反社会人サークル」について、先程まで名前すら知らなかったサークルであり、他の刊行物にどういうものがあるかも知らないため、他意はないことをお断りさせていただきます。
 さて、表現者が問題提起すべく、社会問題をちゃかすような事は大昔から行われていました(例えば、添田唖蝉坊「わからない節」は明治時代につくられた)。最近だと、忌野清志郎の「原発賛成音頭」「善良な市民」等(多いのでごく一部)、ソウルフラワーユニオンの「NOといえる男」という楽曲はまさにそうですし、著書だとパオロ・マッツァリーノ「反社会学講座」もそれです。なお、アメリカはさらに多く、例を挙げればきりはないです。なお、その傾向が特に顕著な物である、有名アニメ「ザ・シンプソンズ」やマイケル・ムーアのテレビ番組「恐るべき真実」等は日本でも見ることが可能です。

 そして、問題提起として重要なのは、これを見て実際に改善しようと行動する切欠となり得るのかということだと思います。先ほど例にあげたものは、悪ふざけな部分も大きいですが、基本的に製作者の意見をしっかりと表明しており、その上で茶化しています。そこでの共感や反発が、知識を深めることや、行動することへの切欠となり得るというのが、これらの創作物の意義であると考えています。

 さて、「この過労死がすごい!」もそれらになりえるのかどうかを、個人的な見解として書いていきます。
 製品を見た限りでは、単純に過重労働の原因や、過重労働が減る原因を書いただけであり、彼らの意見も分からないし(過重労働を肯定しているのか否定しているのかレベルで)、かといって法や事例の解説すらなく、残念だけど問題提起となりえない、悪ふざけで止まるというのが僕の見解です。この状態だと、単純に面白がってハイオシマイなのが関の山だと思います。さらにキツい事を書くと、少し前に首都大東京の学生らが起こした「ドブスを守る会」に近い幼稚さすら感じます。
 これが悪ふざけではなく問題提起となり得るには、「法律の解説を記し、これが違法かどうかを書く」事や、過重が減ることについて、「実際の問題の解決方法を書く」事、もしくは、実際に存在したものを、具体的にリアルに記す事等が必要でしょう。

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